聖書に基づきイエス・キリストの救いを伝える 一志キリスト集会(教会)

 聖書メッセージ01

「永遠のいのちの水」


鳥の写真
 オーレイリーという男

 昔、アイルランドにコナー・オーレイリーという貧しい男の人がいました。彼は一攫千金を夢見てアメリカへ移住することにしました。ところが問題は大西洋を横断する船代を捻出するということだったんです。彼は親戚中からお金をかき集めて、ようやくチケットを手に入れて、船に乗り込んだんです。ところが食事代まで手が出ないですね。それで出航前にオーレイリーはボストンバッグいっぱいにパンを買い込んでおいたんです。そして一週間の船旅の間、朝から晩までパンばっかりかじっていたんですね。数日するとコチコチになって歯が立ちません。それでも彼は他の貧しい乗客から集られまいとして密かに味気ないパンで空腹を満たしていたのです。

 いよいよニューヨークにつくという前の晩になりました。親しくなったある旅仲間の一人が、オーレイリーをレストランに誘ったんです。しかし彼は当然断りました。だって俺にはそういう余裕がないんだ。だからパンだけで食いつないでいるんだ。すると相手は目を見開いて、こう言ったんですね。「何だって、君知らないのか?チケット代金の中には、一日三食一週間分の食事代が含まれているんだぞ。」オーレイリーは悔しがったんですね。それは言うまでもないことです。彼は特権を与えられていたんですが、使わなかったんです。与えられていてもそれに気づかず使おうとしないなら、それは持っていないのと同じです。そして、これは救いについても言えるのです。

 神はあなたを罪と死から救う方法をすでに準備万端用意しておられます。しかし、どんなに救いが完成していたとしても、それを受け取らなければ、自分のものとはならないのです。あなたもまことの神が用意された救いについてお考えいただきたいのです。

 聖書の神とは

 ところで聖書のいう神とは、一体どんな方でしょう。それはあなたのいのちの造り主である方です。あなたの存在のルーツである方、それが神です。しかし、目に見えない造り主を人はどのようにして信じることが出来るのでしょうか。

 杉田玄白は人体解剖図を見て、その美しさに驚きました。

 江戸時代、杉田玄白という蘭学医がおりました。彼はオランダの医学書にある人体解剖図を見て、その美しいこと、精密なことに驚き、是非実物と比較してみたいと思うようになります。ある時、念願かかって死刑にされた囚人の身体を河原で解剖するのです。そしてその解剖図の正確さに驚くのです。まるで瓜二つであったからです。しかし杉田がもう一つ驚いたことがありました。それは複雑な人体の臓器や筋肉や骨の一つ一つに脳からの命令を伝える筋がつながっているということです。彼はこの筋のことを神経と名付けました。

 神経のシンとは神(かみ)と書きます。神経の経というのはみちとも読めますね。すなわち神経とは「神のみち」「神の通る道」という意味なんです。さて、彼はどうして人体をコントロールする筋道を「神の道」神経と名付けたのでしょうか。複雑な人体を調和を持って、コントロールするのは、とても自分の意志で出来るものではありませんね。
 私たちは格別苦心することなく、平然と生きていますが、それは自分で意識してコントロールして生きているのではない証拠だと思います。目に見えない何かが人を生かしているのだ。神が人を生かしているのだ。それで神経、神の通う道と名付けたんですね。杉田玄白が知った人体の知識より、今日遙かに医学は進歩しましたが、それでも人体の謎を知り尽くしたとは言えないと思います。それは余りにも合理的、組織的に設計されているのですね。そして、合理的なものは、デタラメには出来ないのです。必ず知恵によって出来ているのです。このあなたをお造りになった方こそ、あなたの神である方なんです。

 渇いているものは、金のないまま水を買え。

 さて、聖書のイザヤ書にこう書いてあります。
 「ああ、渇いているものはみな、水を求めて出てこい。金のないものも、さあ穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」

 中東では石油以上に大事なものがあります。それは水です。水がなくては石油があっても生きていけません。穀物は枯れ、家畜は倒れ、人は生きることは出来ません。ですから、渇いているものは、金のないままで水を買え、穀物を買えというのは、いのちを買えという意味ですね。

 今から2700年程前、イスラエルで飢饉があったとき、神はこのように語られたのです。「さあ、金を払わないで穀物を買え。」と。
 ところで、普通私たちが何かを得るために方法が二つあると思います。
第一の方法は金を払って買うという方法です。その場合、金を受け取ったものは引き替えに商品を渡す義務があります。しかし、この方法は、金のないものにはどうしようもない手段です。
 第二番目の方法は、金も払わずにひたすらせびることです。これなら金のないものにも出来ます。但し、この場合は商品を渡す義務はありません。あくまでも好意によるものになってしまうからです。
 ところが、聖書はここで第三の道を提示しています。それは金を払わずに買うという方法なのです。金を払わずにもらうのではなく、払わずに買うという方法なのです。一体どんな方法なのでしょう。

 あなたに代わって支払ってくださる方

 以前、家族と一緒に長野県に行ったとき、あっちこっちで記念写真を撮り、思い出になるようにと記録をとったのです。中でも猿のくせに温泉につかるという地獄谷の猿園は圧巻でした。ところがその旅の途中で、カメラをなくしてしまったのです。車の中から歩いた道まで、もう家族中「カメラ、カメラ」と大騒ぎでを捜したのです。この時、「カメラが返事してくれたらなあ」と何度思ったか知れません。大騒ぎでさがしたのですが、とうとう見つかりませんでした。これには本当にガッカリしたのです。特にカメラ係であった家内はすっかりしょげてしまい、楽しい旅なのにとても残念な思いをしました。ところが大阪についてしばらくしますと、北海道からニコンのオートフォーカス一眼レフカメラが届いているではありませんか。それは私がなくしたカメラを10台も買える高級なカメラだったのです。「えっ、何がどうなっているんだ」と急いで梱包を開けると中から納品書が出て来ました。そこにこう書いてあったのです。この度は当商品をお買い上げ下さり、ありがとうございます。実は私たちのカメラ紛失騒動を聞かれたある方が、カメラをプレゼントして下さったのです。私たちは一円も払っていません。しかし、メーカーは私ではない別の方からの代金を受け取っている故に、喜んで商品を送ってお礼まで言われるのです。これをただで買うというのです。

 神は今、あなたにタダで永遠のいのちを買うように勧めておられます。受け取るのはあなたです。しかし、支払うのは神なのです。罪ある人間が永遠のいのちを持つために、神はあの十字架の上で、あなたに代わってキリストのいのちを支払って下さったのです。キリストのいのちの支払いの故にどんな罪人、死を間近にしている人にも等しく、タダでいのちが与えられる、赦しが与えられる、天国が与えられる、神の子となる資格が与えられるのです。どうぞあなたもイエス・キリストを信じ、タダで永遠のいのちを買って下さい。

G.Takahara



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