聖書に基づきイエス・キリストの救いを伝える 一志キリスト集会(教会)

 聖書メッセージ02

「本当に必要なもの」


鳥の写真
 ペテロとヨハネ

 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起ったことに驚き、あきれた。(新約聖書 使徒の働き3章1節〜10節)  新約聖書の「使徒の働き」は、キリストが昇天された後の、弟子たちの伝道活動を記録したものです。今回は足の不自由な方の記事ですが、この箇所から、私たち人間の姿を見ることが出来ます。

 お金に使われている人生


 まず第一に、人間は「求めるものの僕となる」ということです。私たちの多くは健常者であり、また物乞いではありませんので、この人とは何の関係もなさそうですが、一つだけ否定し難い共通点があります。それは、安易にお金に頭を下げるということです。この人は毎日のようにお金に頭を下げていました。私たちはどうでしょうか。「お金を使う」のではなく、「お金に使われている」人生を歩んでいるのではないでしょうか。

 金銀は私たちにはない


 第二に「金銀は人間に真の満足を与えない」ということです。お金は確かに私たちに快楽を与えてくれます。美味しい食事、良い着物、高価な嗜好品などはみなそうです。けれども、それらのものによって人間は決して満足することが出来ません。「まだ足りない、もっと欲しい」という飽くことのない欲望が私たちの心に生じるのは何故でしょうか。また、このお金が原因となって私たちの間に争いや犯罪が起るのは何故でしょうか。「お金が私たちを幸福にする」というのは、実は幻想なのではないでしょうか。  さて、この男の前にペテロとヨハネが現れました。そしてこう言ったのです。「金銀は私たちにはない」。多くの方が何かを求めて聖書を読まれます。けれども案外、自分の求めているものと、聖書が私たちに与えようとしているものとが異なっていることがあります。確かに聖書は単なる道徳や倫理を教える書物ではありませんし、悩みの相談室でもありません。聖書が与えようとしているのは、「私たちが求めるもの」ではなく、「私たちに必要なもの」なのです。ペテロは言いました。「イエス・キリストの名によって歩きなさい」。この人にとって本当に必要なのは「金銀」ではなく「歩くこと」です。それもただ「歩く」だけではありません。それなら私たちも毎日、「歩いて」います。そうではなく、その力の源である「イエス・キリストの名によって」歩くということなのです。

 生きる力


 今日、多くの人が生きるのに疲れ果てています。何故でしょうか。エネルギーが足らないのでしょうか。そうですね。食物は体に必要な栄養は与えてくれますが、心の栄養は与えてくれません。「生きる力」というものは、残念ながら私たちの内側から沸き上がって来ないのです。私たちの内側から出て来るものは、失望、落胆、空しさといったものです。人間が常に自分の外側に刺激を、また生きがいを求めるのはこのためなのです。  キリストはこう語られました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネの福音書7章38節)。キリストこそ生命の源であられます。「信じる」とはこの方に結び付くことです。そのとき「生きる力」が私たちの心に注がれるのです。

Br.Cova



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