聖書メッセージ09
「わが神、どうして」
わが神、どうして
そして、彼らはイエスをゴルゴダの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。
(中略)さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」という意味である。
(中略)それからイエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
不可解な叫び
聖書には不可解な記事がありますね。「わが神、どうして」と叫びながらも、神に捨てられて死んでいったイエスの姿を、イエスの敵対者たちではなく、マタイ、マルコといった弟子たちが恥じることなく記しているのです。それだけではありません。この光景をずっと見ていた百人隊長が、「この方はまことに神の子であった」と言うではありませんか。一体どうなっているのでしょう。何故、そういう結論に至るのでしょう。今回は、この不可解について検証してみましょう。
誤算の叫びではない
まず第一に、この「どうして」という叫びは、十字架につくはずではなかったのに、という誤算の叫びではない、ということです。マタイの福音者を調べますとイエス様は四回、ご自身の死について語っておられるのです。「二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます」(マタイ26章2節他)。イエス様にとって十字架は予想外ではなく予定通り、しかもその日まで知っておられたのです。
正しい方であったことを証明する叫び
第二に、「どうして」という叫びは、全く罪のない完全なお方だけが発することの出来る叫びだということです。私たちも長い人生の中で、不当な苦しみを受けることがあるかも知れません。けれども全く罪の無い、聖なる神様の前に立ち、それでも、「どうして」と問うことの出来る人はひとりもありません。ただイエス・キリストだけが、神の前に立ち「どうして」と問うことの出来た唯一の方なのです。この問いこそ、イエス・キリストに罪が無く、全く正しい神の子であったことを証明するものなのです。
預言された救い主
第三に、この叫びは、イエス様が旧約聖書に預言された救い主、キリストであったことを示すことばだったということです。実は、この「わが神、わが神……」ということばは、詩篇22篇の冒頭のことばと同じものなのです。旧約聖書には、キリストに関する預言が多く記されていますが、この詩篇は、キリストの苦難を予め記されたものの一つです。すなわちこの叫びは、ご自身が旧約聖書に預言されたキリスト、神の子であったことを宣言するものでもあったのです。
身代わりの十字架
最後に、この叫びは正しい方が聖なる神から捨てられたという事実をはっきりと示しているということです。ただ苦しんで下さっただけではなく、捨てられて下さったのです。これほど不条理な、納得し難いことは有りません。なぜ正しい神がそうされたのか。これについてパウロはこう説明しています。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリント5章21節)。
身代わりなのです。本来ならば私たちが十字架につけられるはずでした。けれどもキリストは自ら私たちの罪を負って下さり、十字架で死んで下さったのです。ですからクリスチャンにとっては十字架は恥ではなく、むしろ誇りなのです。
「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6章14節)。
Br.Cova