聖書メッセージ11
「神に見出される」
神に見出される
そこで、イエスは彼らといっしょに出かけられたが、多くの群集がイエスについて来て、イエスに押し迫った。ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群集の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群集の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群集があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも「だれがわたしにさわったのか。」とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコの福音書5章24節〜34節)
病める女
いじめを苦に自殺する子供たち。「知らなかった。なぜ言ってくれなかったのか」と悔やむ親や学校の教師。人の痛みを知ることは難しいですね。死ぬほど辛い思いをしている人がいる。それが我が子であっても気づかない。ましてその悩みを癒してあげることなど不可能なのかも知れませんね。さて、今回は、やはり多くの人から見捨てられた女の人の物語です。この箇所から一緒に考えてみましょう。
悩みを知るキリスト
まず第一に、キリストはこの女性に気づかれた、ということです。多くの群集がイエス様に押し迫っていました。その中で本来なら感じるはずもない着物のふさに彼女は触ったのですが、イエス様はこれに気づかれたのです。イエス様は悩める者をご存知です。世界に何億という人がいようとも、キリストはあなたをご存知です。あなたの痛みをご存知なのです。
関わって下さる方
第二に、キリストは立ち止まられた、ということです。気づいただけではありません。この女性のために立ち止まられたのです。私たちも時として人の悩みに気づきます。けれどもそのために足を止めることがあるでしょうか。「かかわりたくない」と見てみぬふりをすることもあります。いや、それがほとんどです。また、仮に立ち止まったからといって、本当に助けることが出来るでしょうか。「かえって悪くなる」という結果になるかも知れませんね。
捜されるキリスト
第三に、キリストは彼女を探された、ということです。この女性は、うしろからこっそりイエス様に触れました。他の人のように堂々と進み出て「私を癒して下さい」とは言わなかったのです。そんな資格がないと思ったのか、群集のために出来ないと考えたのかは分かりませんが、いずれにせよ彼女はうしろから触ったのです。そして誰にも気づかれないまま再び群集の中に消えていくつもりでした。しかしキリストはそうはさせませんでした。彼女を求められたのです。「だれがわたしの着物にさわったのですか」。
待たれるキリスト
第四に、キリストはご自身の前に出て来るのを待たれる、ということです。イエス様はそれが誰であるのかを知っておられました。「あなただ」と言うことも出来たはずです。けれどもイエス様は、彼女が自分から進んでご自身の前に出て来ることを望まれたのです。彼女はそのまま黙っていることも出来たかも知れません。あるいは逃げることも出来たでしょう。しかし彼女はイエス様の呼びかけに応じました。「イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた」のです。イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを直したのです。」
神に見出される
信仰とは、うしろからイエス様に触れることではありません。隠れながら信じることではないのです。イエス様の前に出てひれ伏すことです。正面からキリストと向き合うことなのです。そして救いとは、ただ病気が癒されることではなく、自分という存在がキリスト、すなわちあなたの魂の親である神に見出されることなのです。主はこう言われます。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19章10節)
あなたはもう神に見出されていますか。
Br.Cova