聖書メッセージ08
「みな罪の奴隷です」
みな罪の奴隷です
イエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そしてあなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる。」と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」
(ヨハネの福音書8章31〜34節)
マクベス
シェイクスピアの作品に「マクベス」があります。王ダンカンを暗殺し、王位を奪ったマクベスが、その後も次々と殺人を重ね、最後には自分も殺されるというストーリーですが、この作品の見どころはマクベスという人物に描かれた虚飾のない人間の姿ではないでしょうか。勇敢な武将として幾多の戦いを制してきたマクベスも、自分のこころは制することが出来ず、王を殺してしまう。まさに「罪の奴隷」を演じるわけです。正常な人間を狂人へと、殺人鬼へと変えてしまう「罪」とは一体何物なのでしょうか。
私たちのうちに住む罪
第一に「罪は私たちの内に住む」ということです。罪は元からマクベスの心に潜んでいたのです。物語は魔女がマクベスに「いずれは王となる方」と囁くことから始まるのですが、もし彼に罪がなければ、このことばが心を捉えることはなかったでしょう。しかし実際には、この一言が矢のようにマクベスの心を突き刺し、今まで眠っていた怪物、「罪」を呼び覚ましてしまうのです。使徒パウロは「私たちのうちに住む罪」(ローマ7章20節)と表現しました。「住む」、すなわち罪を「生き物」として彼は捉えていたのです。誘惑は外から来ますが罪は私たちの内に住んでいるのです。
罪は私たちを支配する
第二に「罪は私たちを支配する」ということです。魔女の投じた一言により、罪がその正体を現しました。そしてマクベスの心の内では、この罪と良心との壮絶な闘いが始まったのです。「そんなことをすれば、もはや男ではない、人間ではない」と良心が必死に叫ぶのですが、やがて王ダンカンを暗殺する絶好の機会が訪れると、ついには罪が勝利を収め、マクベスへの支配権を完全に掌握します。そして殺人を犯させるのです。イエス様は語られました。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」。罪の奴隷、すなわち罪が主人であって、私たちが罪の主人ではないのです。
罪は死に至る病
第三に「罪は死に至る病」だということです。良心を打ち負かした罪は、最後にマクベス自身の命をも奪います。罪はよく癌にたとえられます。最初は小さな癌細胞が、次第に周囲を侵食し、ついには命を奪う様は、まさに罪という病巣の働きそのものだからです。そして私たちもこの罪の病に犯されつつある病人だと聖書は語っています。けれどもイエス様はこう言われました。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコの福音書2章17節)。では、どのようにして、この罪という病を癒して下さるのでしょうか。
「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」(1ペテロの手紙2章24節)。
聖書は語ります。私たちの病をいやすのは、キリストの打ち傷、すなわち十字架なのです。
Br.Cova