聖書メッセージ06
「新しい誕生」
新しい誕生
さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたがたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3章1〜16節)
新しい誕生
「生まれ変わってもう一度人生をやり直したい」。誰もが一度は抱く願望ですね。けれども、生まれ変わったとして、どんな人生を生きるのでしょう。一体何が人生の成功と言えるのでしょう。地位、名誉、財産でしょうか。実は今回登場するニコデモは、それら全てを備えていました。その彼がイエス・キリストに出会ったとき、初めて自分の人生に不足を感じたのです。彼は問いました。「神がともにおられるのでなければ……」。彼には、「神がともにおられる」という確信がなかった、すなわち彼の人生には神がともにいなかったのです。この一点で、彼はイエス様と決定的に違う自分に不足を感じたのです。そしてこの欠乏感、不安は他の何物によっても満たされるものではありませんでした。イエス様は答えられました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。今回は、「新しく生まれる」というテーマで考えてみましょう。
今のいのちに何かをプラスすることではない
第一に「新しく生まれる」とは、「今のいのちに何かをプラスすることではない」ということです。今の延長線上には、神の国は無いのです。「今日から新しく生まれ変わろう」と、心を新たにすることは出来るかもしれませんが、それで新しいいのちが誕生するわけではありません。今まで築き上げてきた自分の人生に聖書の教え、イエス・キリストの教えをつけ加えても「新しい誕生」を経験することは出来ません。
霊的ないのち
第二に、「新しいいのち」とは霊的ないのちだということです。私たちは、心臓や脳の活動を指して、生きている、と言います。そのいのちとは、ちょうど摘み取られた花のようです。しばらくは美しいのですが、やがて枯れます。大地に根を下ろしていないからです。私たちも、いのちの源である神様から離れていれば「死んだ者」に過ぎません。「新しく生まれる」とは、霊的存在であられる神様に結び付いたいのち、霊的ないのち、に生まれることです。
愛と犠牲によってなされる
第三に、「新しく生まれる」、すなわち出産とは、母親の愛と犠牲によってなされるということです。通常、出産には母親の大きな苦しみが伴います。また時として命を落とすこともあり、聖書にもその事例が記されています(創世記35章16〜19節)。母親は、その激しい苦しみと、死の危険を知っていながら、怯むのではなく、むしろ喜んでこの戦いに立ち向かいます。神様は母親に愛と勇気を与えられたのですね。これが無ければ私たちはこの世に生まれることはありませんでした。そしてそれは「新しい誕生」においても同様です。イエス様は語られました。「人の子もまた上げられなければなりません」。これはご自身の十字架を予め語られたものです。新しいいのちを生み出すために命を賭ける者、それは私だとおっしゃっているのです。聖書はこう記しています。
「もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ53章10〜11節)。ここに記された「子孫」こそ、イエス様の激しい苦しみによって生み出されたもの、すなわち「新しく誕生した者」なのです。
キリストを信じる、ということは、単にキリストを師として仰ぐことや、偉大な先生、宗教家として尊敬することではありません。十字架で命を捨てて下さった方とのいのちの繋がりを持つ、すなわちこの方の苦しみによって生み出された者となる、ということなのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント5章17節)。
Br.Cova