聖書メッセージ03
「人類究極の質問」
人類究極の質問
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことにあなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、大変驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイの福音書 19章16〜26節)
永遠への思いを与えられた人の心
幼いとき、夜空を見上げながら、「はたして宇宙に果てがあるのだろうか?」と思い巡らした方もおられるでしょう。私たちは時々、永遠について考えることがあります。それもそのはずで、聖書には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者の書3章11節)と書かれているのです。ところが、この永遠を阻む恐ろしい敵が存在します。それは、「死」です。どれほど永遠に生きたいと願っても、死はそれを許しません。死を克服するいのち、「永遠のいのち」こそ私たちの究極の願いではないでしょうか。ですから、この青年の質問、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」という問いは、私たち人類を代表した質問、すなわち人類究極の質問と言えるのではないでしょうか。ところがこの青年はイエス様との問答の後、背を向けて帰って行きました。実はこの質問には、「永遠のいのち」を得る上で大変な思い違いがあったのです。
ひとつは、「どんな良いことをしたら」ということばに隠された青年の思いです。つまりこの質問には、「自分は良いことの出来る人間」、すなわち「良い人間」だという前提があるのです。これに対してイエス様は「良い方はひとりだけです」と答えられました。つまり、人と比べて「良い」ではなく、神の要求される基準に照らしてどうなのか、と問われたのです。
もうひとつは、「永遠のいのち」を何かと引き換えにいただけるものと考えたことです。たとえ不十分だとしても、できるだけのことはさせていただきたい、これは確かにりっぱな考え方のように思えますが、実は「私はイエス・キリスト(救い主)を必要としません」と言っているのと同様なのです。
「自分の努力で救われたい」という考えを持つ青年に対してイエス様は最後にこう言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」では、神にはどのような不可能をして下さるのでしょう。イエス様はそれ以上は語られませんでしたが、ご自身の生涯を通してそのことを示して下さいました。
まず第一に、キリストはへりくだることの出来た方です。もし、らくだが針の穴を通るとしたら、ノミのように小さくならねばなりません。キリストは無限の方ですが、人となって「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」(ピリピ2章8節)ました。
永遠のいのち
第二に、キリストこそ、無力な人間に「永遠のいのち」を与えることの出来る唯一の方だということです。「わたし(キリスト)は彼らに永遠のいのちを与えます」(ヨハネ10章28節)。キリストは死と復活により、「死」を滅ぼされました。この方にこそ「永遠のいのち」があるのです。私たちは、キリストを信じるときに「永遠のいのち」をいただくのです。まさにキリストこそ不可能を可能ならしめる「神」であり、「永遠のいのち」を持つお方なのです。
Br.Cova