聖書に基づきイエス・キリストの救いを伝える 一志キリスト集会(教会)

 聖書メッセージ12

「天に対する罪」


イメージ写真  天に対する罪

 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前を下さい。」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにして下さい。」
 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づけした。息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子を呼ばれる資格はありません。」ところが、父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。(ルカの福音書15章11節〜24節)

 被害者は誰か

 普通、私たちが謝るのは、その被害者に対してです。何の関係もない人に謝ることはありません。ここで弟息子が「天に対し」と言っているのは、被害者は神である、ということを意味しています。では一体、弟息子はどのようにして神に被害を与えたというのでしょうか。

 人間を造られた神

 もし人間が神とは関係なしに存在しているのであれば、神を被害者とすることは無かったかも知れません。しかし聖書は「神は人をご自身のかたちとして創造された」(創世記1章27節)と記しています。全て造られたものには、その目的があります。私たち人間が造ったもの、時計、パソコン、自動車、どれもその目的があります。そしてそれら人間が造ったものはすべて人間のために造られたように、神が造ったもの、すなわち人間は、神のために造られたのです。神のために、というのは、神と交わり、神とともに生きるために、ということです。

 的はずれの人生

 このたとえ話で、弟息子のお父さんは神を表しています。弟息子が父の家を出て行ったことは、神の元を離れ去った(すなわち、神によって与えられた目的を放棄した)人間の姿を表しているのです。罪とはギリシア語でハマルティアと言いますが、これは「的はずれ」という意味です。神から与えられた目的を外れ、背を向けて歩んでいる、「神など知らない」と言って歩んでいる、これを「罪」というのです。

 180度の転換

 これに気づいた弟息子は、父のもとに帰りました。ボロボロになった、その姿のままで帰って行ったのです。もはや弟息子には失った財産を回復させる力どころか自分の腹を満たす食べ物すら無かったのです。けれどもお父さん(すなわち神)は、その弟息子を赦し、そのままの姿で受け入れて下さいました。弟が出来た唯一のこと、それは方向を転換したことだけです。これを聖書では「悔い改め」といいます。

 神は被害者である

 神は確かに愛なる方です。悔い改めた人間を赦して下さいます。けれども神は正しい方でもあります。正しい方が「罪」を見逃すことは出来ません。「罪」は裁かれなければならないのです。そこで神は罪を犯した人間を裁くのではなく、ご自身の愛するひとり子イエス・キリストを裁いて下さいました。十字架とは私たちの身代わりの死なのです。
「しかし、彼(キリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節) 貴方はこの神に背を向けて歩んでいませんか。もしそうであるなら、向き直って下さい。神は貴方の帰りをずっと待っていて下さったのですから。

Br.Cova



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