聖書に基づきイエス・キリストの救いを伝える 一志キリスト集会(教会)

 聖書メッセージ14

「罪からの救い」


リンカーン大統領
 罪からの救い主

「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1章21節)

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(1テモテ1章15節)

 「救い主」と聞くと、皆さんはどのような人物を思い描かれますか? この混乱した世界からの救い主、テロや犯罪のない社会を実現する政治家、皆が平和で豊かに生活出来る国家を造る指導者…。様々でしょうが、大体が我々の生活を脅かす外的要因を除去してくれる人、とでも表現できるでしょうか。イエス・キリストがお生まれになったころのユダヤも同様でした。ローマ帝国の圧制から解放してくれる偉大な軍事的指導者、かつてのダビデ王を彷彿させるような人物、というのが一般的な救い主観でした。ところが、その養父となるヨセフに告げた天使の証言によると、「罪からの救い主」だというのです。今回は、このテーマで考えてみましょう。

 神との断絶からの救い

 「罪」とは何でしょうか。国語辞典を調べますと、「法律や道徳に反すること」といった説明がなされています。例えば刑法で規定されている「罪」とは、個人的法益に対する罪(殺人、傷害、窃盗など)、社会的法益に対する罪(通貨偽造、放火など)、国家的法益に対する罪(偽証罪、贈賄罪など)などです。対象となるのは個人、社会、国家であって、その権利や安全を侵害することが「罪」だとされているのです。ところが聖書の語る「罪」とは、「律法に逆らうこと」(1ヨハネ3章4節)とされています。この「律法」というのは、単に「法律」を逆さまにしたことばではありません。有名な十戒の第一は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあり、人や社会ではなく、神に対する罪が規定されているのです。私たち人間を造られた神の戒めを守らないことこそが罪だと言っているのです。ですから、「神を知らない」のであれば、それだけで十分に「罪人」だと言えるのです。キリストは、この神と断絶した罪人を救うために来てくださったのです。「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです」(2コリント5章20節)。

 罪の奴隷からの救い

 神から離れた人間は、その思い、行いが全て悪へと傾くようになりました。新聞やTVのニュースを見れば自明のことです。国際間の紛争だけではなく、会社や学校、そして家庭の中にまで人間の争いが満ちています。「私だけは関係ない」と言いうる方がいらっしゃるでしょうか。キリストは語られました。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。……もし子(キリスト)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ8章34、36節)。人間の歴史は闘いの歴史でもありました。我々の自由を脅かす外敵、国家権力との闘いであったのです。しかし、内側から来る敵、すなわち罪に対して私たちは、全く無力です。頭では正しいことを知りながら、心が正反対のことを望んでいて、結果的に行動は頭にではなく、心に服従している、という経験を皆さんはお持ちではないですか? キリストの使徒であったパウロは、こう記しています。「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています」(ローマ7章19節)。キリストは、このような罪人を病人と見たて、このようにおっしゃいました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。……わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9章12、13節)。

 罪の結果からの救い

 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6章23節)。

 「何故死ぬのか?」。この質問に対する答えを人間は持っておりません。けれども聖書は明確な回答を示しているのです。そもそも「死」とは「命」を失うことです。とすれば、「命」を知らずして「死」を知ることは出来ないのが当然です。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2章7節)。すなわち、命の源は神です。この源と断絶したので、人は死ぬようになったのです。キリストはその断絶していた神と人との関係を修復して下さったのです。どのようにしてでしょうか。十字架の死によってです。「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪は離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方(神)のもとに帰ったのです」(1ペテロ2章24、25節)。

 キリストは罪の結果である死からも救ってくださいました。キリスト者が死を経験しない、という意味ではありません。もしキリストを信じることなく死を迎えれば、それは神との永遠の決別となります。そして罪のさばきを受けねばなりません。しかしキリストを信じるならば、死は、この肉体との決別であり、また神とともに住まう永遠への入り口となるのです。
 是非、キリストを信じ、この罪からの救いを受ける方となられますよう心からお勧め致します。

Br.Cova



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