聖書メッセージ04
「あなたがその男です」
あなたがその男です
主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻をあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。」
(中略)ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。しかしあなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。(聖書 第二サムエル記12章1〜14節)
ミケランジェロの彫刻で有名なダビデ
ミケランジェロの彫刻で有名なダビデですが、彼は単なる芸術作品のモデルではなく、歴史上実在したイスラエルの勇士、また王様なのです。
このダビデのところにナタンという人物が来て、ある話を聞かせます。それを聞いたダビデは、「そんなことをした男は死刑だ」と叫ぶのですが、実はその男こそダビデ自身の姿だったのです。私たちは、この聖書の記事から、人間の真の姿を見ることが出来るのではないでしょうか。
第一に「人間は、正義を尊ぶ」ということです。私たちが、極悪非道な話を聞かされたとき、「悪いことだ」と判断しているのは、学校や社会で学んだ知識ではありません。良心です。法律の条文ではなく、心の中に在る良心に照らして、「その男は死刑だ」と叫んでいるのです。人間は教わらなくても「何が良いことで、何が悪いことなのか」を知っています。また悪い行為は裁かれなければならないことも知っているのです。何故でしょうか。聖書には、「神は、人をご自身のかたちに創造された」(創世記1章27節)と記されています。「神のかたち」、すなわち人間は、正義や愛といった概念を理解し、それを尊ぶものとして造られたのです。
罪を知らない方を罪とされた神
第二に、「人間には、正義を尊ぶ心と、罪を慕う心、すなわち二つの相反する心が同居している」ということです。ダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と叫びましたが、それがそのままダビデ自身への死刑宣告へと変わりました。実はダビデは、部下が戦地で戦っているときに、安逸をむさぼり、部下の一人である戦士ウリヤの妻と不倫の罪を犯しました。そのうえ、その罪を覆い隠すため、夫ウリヤを戦いの最前線に送り込み、故意に戦死させてしまったのです。人間は確かに正義を尊びます。他人の罪であれば正しい裁きをすることもできます。しかしその自分が、罪を慕い、罪に支配されているのです。正しいことを知っているのに出来ない、悪いと分かっているのにやめられない、それが人間の姿ではないでしょうか。
しかし、次のダビデのことばが、彼を救うことになりました。「私は主に対して罪を犯した」。ダビデは神の前に自分の罪を認め、告白しました。そして神もまた、このダビデの罪を見過ごして下さいました。けれども、神はダビデの代わりにダビデの子を打たれました。罪を犯したダビデではなく、何の罪もなかったダビデの子が死んだのです。「そんなことをした男は死刑だ」。この宣告はダビデへの死刑宣告となりましたが、そのさばきを受けたのは、ダビデの子だったのです。聖書はイエス・キリストについてこう記しています。「神は罪を知らない方(キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(第二コリント人への手紙5章21節)。
Br.Cova