聖書に基づきイエス・キリストの救いを伝える 一志キリスト集会(教会)

 聖書メッセージ10

「我に返ったとき」


鳥の写真 我に返ったとき

 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、「お父さん。私に財産の分け前を下さい。」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。  しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにして下さい。」  こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走りよって彼を抱き、口づけした。息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子を呼ばれる資格はありません。」ところが、父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」そして彼らは祝宴を始めた。(ルカの福音書15章11節〜24節) 「放蕩息子」という名で親しまれているこの聖書のたとえ話を読むと、二つの物語を思い出します。一つは芥川龍之介の「杜子春」。もう一つはアンデルセンの「みにくいアヒルの子」です。今回は「みにくいアヒルの子」とこの聖書の箇所の類似点を挙げながら、考えてみましょう。

 生まれながら迷い出ている

 「みにくいアヒルの子」は本当は白鳥の子。けれども何故かアヒルの巣で生まれました。生まれながら「迷って」いたのです。放蕩息子はどうでしょうか。財産をもらって家を出たときから「迷った」のでしょうか。いいえ、もっと前から息子の心は父から離れていました。さて、私達日本人は「神」と聞いてもピンときません。それは日本語そのものに聖書が語る「神」(ゴッド)に相当することばがないからです。日本語の「神」と聖書の「神」(ゴッド)とはその意味が異なっています。聖書の神とは、天地万物の造り主(造物主)。私達をも造られた唯一の神なのです。私達を造られた方ですから、その意味においては私達の本当の親と言うことが出来ます。その親を知らない私達日本人は国民全体が「迷っている」といえるでしょう。

 みにくい罪びと

  迷い出たものはみにくくなってしまいました。本来、美しい白鳥であるはずの子が、その群れを離れてしまったとき、「みにくい」と見られるようになりました。弟息子も同様です。父から受けた良いもの(財産)も、迷い出た彼の手に握られたとき、彼の醜態を助長するものにしかなりませんでした。人間には豊かな感情や知性があります。けれども神から迷い出た結果、豊かな感情は、愛することよりも憎むことに、創造的な知性は破壊的な兵器を造るために使われてしまいました。 聖書にはこう記されています。 「義人(正しい人)はいない。ひとりもいない。 さとりのある人はいない。神を求める人はいない。 すべての人が迷い出て、 みな、ともに無益な者となった。」(ローマ3章10節〜12節)

 我に返る

 さて、今回のテーマ「我に返る」です。でも一体「我」(本当の自分)とは何なのでしょう。そのことを考えるには、次のことを認識しなければなりません。すなわち「みにくいアヒルの子は、実はそれが本当の姿(我)ではない」ということです。では、本当の姿とは何ですか。言うまでもありません。「白鳥の子」です。この弟息子も同様です。落ちぶれて豚の世話をしている、でもそれは彼であって彼ではありません。彼の本当の姿は、「父の息子」です。「我に返る」とは、この「父の息子」に戻るということなのです。 アヒルの子は親を間違えました。弟息子は親を捨てました。親を失ったとき、本当の自分(我)をも失ったのです。けれども最後には本当の親の元に戻りました。そして本当の自分の姿をも取り戻したのです。これが「我に返る」ということです。 あなたの本当の親である神は、あなたにも呼びかけています。「一体あなたの親は誰ですか、そしてあなたは誰の子なのですか?」 イエスを信じたクリスチャンにペテロはこう語りました。「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2章25節) 是非、聖書をお読み下さい。そしてあなたの造り主なる神のもとに立ち返って下さいますよう心からお勧めいたします。

Br.Cova



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